古典におけるセックスを歌った生々しい短歌10選

やぶから棒で全く申し訳ないが、皆さんはセックスをやっているだろうか?

「突然何を言いだすんだ」「お前は人に何か尋ねる時、そんな事を言いだすのか」「そんな質問を秋葉原や原爆ドーム前でできるのか」「お前の両親や師匠クラスの人間に同じ質問してからにしろ」「してないです」「してないです」「してないです」など、さまざまな反応が予想できる。
個人的な統計で言えば、「していない」という回答が多いと思われる。なぜなら私たちの住んでいる社会は、セックスに関して地獄だからだ。

今、セックスは出来ない。とてもではないがセックス出来る空気ではないのが、2013年の世界情勢だ。「そんな事はない、お前はさては童貞なのではないか」と言うのなら、じゃあセックスを屏風から誰か出してみたらどうなんだ。

しかし、かつてはそうではなかった。かつてセックスは、いたるところに転がっていた。その証拠に、我が国の古典短歌にはセックスが頻出するのを、皆さんはご存じだろうか。
それは、「逢う」という言葉だ。
古典ではこれは単に「出会う」を意味するではなく、「契る」つまり、セックスを意味する事がある。
今回は「逢う」の単語を、素直に「セックス」と現代語訳し、古典と言うだけでおもわずスルーしていた短歌達を見直そうという試みである。短歌達から浮かび上がってくる情景は、きわめて生々しく、そして現代にも通じる感情がそこにある。
とりあえず今回は「逢う」の入った古典短歌10首選び、直訳し味わってみた。皆さんも古典に出現したそのセックス観をぜひ味わってほしい。
そこから何がみえるだろうか。何が私たちをこんなにもセックスの地獄に追いやっているのだろうか、考えていきたい。

あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな (和泉式部)

→もう死ぬが 死後の世界の思い出に あともう一度セックスしたい

いきなり何を言ってるんだという感じだが、平安時代の代表的歌人にして「浮かれ女」(藤原道長の評)、つまりまあ、下品な言い方をすればヤリマンさんだったのだろう和泉式部の歌である。その情熱的な生き方はwikiを観るまでもなく、この短歌に込められているんじゃあないか。
死んだ後(この世界の外側の!)の思い出にセックスしたいんだもんなあ。すごい性欲と怨念だと思うと同時に、生々しい生きようとする力を感じずにはいられない。

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月影(紫式部)

→セックスをしたのか分からないうちに 雲に隠れた夜の月影

源氏物語で有名な紫式部の歌だが、紫さんはいわいるヤリ逃げされてしまったのでしょうか。やることやって、すぐに帰られてしまったという、切ない感じを月影に例える辺り雅なものだと思いますし、さすが千年の女流作家だなあという感じである。この状況も、意外に現代でもあるあるなのではないか。

逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり (権中納言敦忠)

→セックスが終わった後に比べれば、昔は何も考えなかった

これもまた男的にはいろいろ共感出来るんじゃないか。セックスした後のいろいろな面倒くさい感じがよく出てます。セックスをする前は適当なもんですが、した後なんですよ問題は、いろいろと。っていや私は童貞だから詳しくはよくわかりませんが。

逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし (中納言朝忠)

→セックスが絶えてしまって もう君や俺の駄目さもどうだっていい

もちろん、原意を忠実にとれば、「もう2度と会えないのならあなたの事で悩んだり自分の駄目さを恨んだりしないんですけど(それくらい逢えなくて苦しいです)」という歌だが、「逢う」を「セックス」と無理やり詠むと、また別の味わいがあらわれる。
セックスに飽きてしまったカップルの倦怠期の歌とでもいうのか。セックスが、絶えてしまって人(相手)どころから身(自分)すら「恨みざらまし」、つまりどうだってよくなる。
もう相手に性的興奮を求められなくなってしまったのか。そうなってしまうと、相手への関心も、あるいは恋愛において自分自身を責める感覚すら無くなってしまうんだろうか、と言った所。と、無理に解釈してこんな味わいもいかがでしょうか。

あひにあひて 物思ふころの 我が袖に 宿る月さへ 濡るるかほなる(伊勢)

→やりにやって す素になったとき 手を照らす月光でさえぼやけて見えて

昔から「あひにあひて」の解釈が難しい歌として知られているが、これは素直に「セックスをやりまくって」と意味をとってみたらどうだろうか。セックスやりまくってふと素に戻った時の窓辺で、手に月の光がさしていた。それが「濡るるかほ」、つまりぼやけて見えるという事は、目に涙が溜まっているという……。
激しいセックスの後、ふと窓際で素になってしまって物思いにふけてしまった、聡明な女性の一瞬の感情を、「涙」という言葉を用いずたまたま手を照らしていた月の光が「濡るるかほなる」、と表現とるあたり、上手いなあと思うと同時に、やることやって素になった時の、どうしようもない感じというのは、現代でも生々しく遭遇するものではないだろうか。

こぞ去年の春逢へりし君に恋ひにてし 桜の花は迎へけらしも(若宮年魚麿)

→去年の春 セックスをして恋をした 今年も桜は迎えてくれるか

万葉集から。さすが奈良の歌人の素朴な味わい。あと、「逢えりし君に恋」を、「セックスをしてから恋をした」と取ると、ちょっと深い。と同時に、「去年の春」と「迎えけらしも」という言葉から考えるに、一年おきじゃないと出会えない長い離別なんかも想像できる。

逢ふことも今はなきねの夢ならで いつかは君をまたは見るべき(藤原彰子)

→セックスが今できないので夢でする いつかは君とセックスしたい

古典では「見る」も「セックス」という意味でもとれる。ので、こんな身も蓋もない短歌になってしまった。身も蓋もないけれど、古語で言うだけでこんなに雅だ。
もしかすると私たち現代人は、日本語から雅さを捨ててしまったために、セックスへのハードルが異様に高くなってしまったのではないだろうか。
言語とは直接文化と結びついている。セックスを取り巻く文化から、雅がなくなってから、我々の地獄がはじまっているのではないだろうか。

くやしくぞのちに逢はむと契りける 今日を限りといはましものを(藤原季縄)

→くやしいな 後で抱こうと言ったけど ここに居るのは今日限りだよ

スケジュール管理のなってない男だなあと思うし、「くやしくぞ」とかいいながら「のちに逢わむ」と言っちゃってるあたり、この男はぶん殴りたいなあと思う。
ちなみに、「今日」は「京」にかかっているダジャレ。僕は都落ちしてしまうよ、というニュアンスもあり、本当はもっと切ない歌でもある。はずなのだけれど、現代語訳の頭の悪さはどうしたものか。

我が恋はゆくへもしらずはてもなし逢ふをかぎりと思ふばかりぞ(凡河内躬恒)

→我が恋は行方も知らず果てもない セックスしたいと思うばかりで

なんかもういろいろとこれはひどい。

我が恋は逢ふをかぎりのたのみだに行方もしらぬ空のうき雲(源通具)

→我が恋はセックスだけをあてにした行方もしらぬ浮き雲の様

浮き雲に謝れ。
ちなみにこの短歌は上の短歌の本歌取りである。
セックスの相性だけで恋をしてしまう気持ちを浮き雲に託して、ふわふわ生きる事を許された平安人は、本当にセックスに関しては幸せだったんじゃないかなあと思うばかりだ。

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以上、10首ほど短歌を上げてみたが、「逢う」を「セックス」とダイレクトに訳す事によって、今まで骨董品だった言葉達が急にいきいきとしてきた感じがするのではないだろうか。こんな感じで片っ端から「逢う」を含む短歌を直訳してみるのもいいかもしれない。
そこから、現代にいきる私たちが、何を捨て、何を得たのかが見えてくる気がする。
私には「やってる事はけっこう下衆なのに雅っぽく見えるかっこいい言葉の文化」が、現代のセックス文化には完全に抜け落ちてしまったと思えた。
現代の日本の文学作品、あるいは詩歌で、これほどまでに恰好よく「セックス」やその周辺を表現する事は出来るだろうか。
古典歌人たちは、理性に対抗する野蛮な感情を、雅な言葉の文化で立ち向かい、これを調伏し、芸術作品にまでしあげ、言葉を千年の歴史にのこした。
ひるがえって、雅さを捨て、乾いた、身も蓋もない言葉と文化しか残されてない現代のセックス情勢だ。
私たちは現代のセックス文化を、千年残せるだろうか?
古典歌人の残した美しい言葉に対抗できるセックス文化を、私たちは持ち合わせているだろうか?
恰好よさ、雅さを保ったまま、私たちは古典人に恥じることのない堂々としたセックスが、出来るだろうか?

藤田描

藤田描

出会い厨やってます。