(プツッ……ザザザ……ザザ……ザ……)
ハロー? もしもし? 聞こえてるかい?
なにしろ今日もベリーホットな、朝から、機械も狂っちまって……
(ザザ……南南東の風やや強く……)
あッ……畜生……おいだれか雑巾、台本濡れちまったよ……
新しいの、氷と、ガムシロたっぷり入れて……
(……気象庁によると、観測史上最大の……)
何だっけ? そうだ、暑いねって……
ビールは? え? 駄目?
早いとこ切り上げて、飲みにいかない? ねえ
とっとと一曲め……そうだろ、どうせ音楽が聴けりゃいいんだろ……
なんだっけ? ええと……
ジェファスン・エアプレイン、「ウィ・キャン・ビー・……
(ザザザッ……この暑さは来週まで……ザザ……)
Jefferson Airplane – We Can Be Together
夏の午前、いかにも「これから暑くなるぜ!」というような日差し。
そんな日はセミも朝から元気だし、ラジオ体操を満足にすました爺さんが洗車などしている!
小学生が自転車で駆けていくのは、みんな図書館に集まって宿題でも終わらそうとしているに違いない!
Tシャツもシーツも汗でぐっしょりだけど、牛乳を飲んで、期限の近いレーズンパンでもかじりながら、そういえば、かのウッドストックのとき、熱狂の夜が明けたさわやかな空気の中で演奏していたのは、ジェファーソン・エアプレインだったっけ……
泥臭いピアノの音にフォークロック調のコーラスが乗って、グレース・スリックのヴォーカルも伸びやかな佳曲。
いかにもヒッピー・ムーブメントの最盛期のにおいを感じさせるが、この時期によく見られるように、ハード・ロックやサザン・ロックの影響を受けはじめると、サイケ・ロックはとたんに果敢ない印象をもつように感じるのは僕だけだろうか?
たとえばこの曲の入ったアルバム『Volunteers』の展開において、ハードロック調の「Eskimo Blue Day」からいかにもノスタルジックなブルース・フォーク「Song For All Season」に至るときの開放感、このときに回帰されるのはいかにも失われた「アメリカ」の大地の姿なのだけど、
そこにはある種の「絶望」「あきらめ」があるように思える。
そのヒッピーのコミューンが、永続的なものではないという予感というか。決して永遠に続けられるものではないから、最後に消える瞬間に、
その失われたものを夢みるとでもいったような、消滅の美学とでもいうようなもの。
そうだとしたら、そのハードロックの重苦しさというのは、泥沼化したベトナム戦争の息苦しさと自然に重なってくるわけで、
そして「みんないっしょになろう」というのは、今となっては、夏の朝の日差しに一瞬目眩がして浮かんだ夢のようにも感じられる。
Love – A House Is Not a Motel
いよいよ太陽が南中すれば、じりじりと焦げる背中、こんなところに生物が住めるものか!
一旦町に出てしまったら、もはや日陰はなく。
逃げようと思っても、ますます道はのびていってしまう!
どこへ行こうと思っていたんだったっけ?
まったくノー・ディレクション・ホームだ!
このまま志半ばで、何にも成し遂げず、行き倒れてしまうのかなあ。
不遇のバンド、ラヴは名作『Forever Changes』を制作したのち、 何枚かのアルバムを出すものの振わず、次第に解散してしまう。
その最後にはジミ・ヘンドリックスとの共演もあったものの、商品化されなかったり、発表されても完成度としては今ひとつであったり、
ジミと作るはずであった新バンドも結局彼の死により結成されなかったり……
しかし、この『Forever Changes』はまぎれもなく名盤であることは間違いない。
サイケ・ロックでありながら、ポップスとしてサウンドが完成されており、個人的な聞き所は、名スタジオ・ミュージシャン、ハル・ブレインによるドラム!要所をかっちり押さえるドラミングはさすが。
そして、この「ポップスとサイケ・ロック」という関係性は特徴的であり、つまり、ヒッピーの思想として大量消費文化の否定というものがありながらも、
その音楽はやはり大量消費文化の中で生まれたポップスを踏まえているし、逆に言えばヒッピーのカルチャーは大量消費文化がなければ生まれなかった。
そういう意味ではヒッピーはアメリカの文化に出来た種痘のようなものであり、文化の生んだひとつの変異体なのだとも言える。
たとえば「Alone Again Or」にみられるアシッド・フォークめいたギターと、ハーブ・アルパート(!)を参考にしたと言うホーン・セクションの絡みを聴くと、
どうも不思議な、相反する遺伝子のあいだに生まれた子供のような、奇妙な畸形めいたものを感じるわけだけど、
その歪な形こそが、60年代のロックの特徴、今となっては再現できないところ。
Jimi Hendrix – Wild Thing
暑すぎてそのへんが急に燃えだしたって不思議じゃない!
紙くらいならいかにも燃えちゃいそうな気候だ!
そんなんだから、よけい、ギターなんか簡単に燃えてしまうだろう!
ジミ・ヘンドリックスがギターを燃やしたというのは有名な話だけれど、何の曲のときに燃やしたのかというのは、ちょっとマイナーな話題だろう。
「Wild Thing」はThe Troggsというバンドがオリジナルのブルースナンバーで、3コードを基本としたシンプルな曲なのだけど、これもジミの手にかかれば、もはやジミの音楽になってしまうのだから、すごい。
それにしても面白いのは、ギターを壊したり、燃やしたりしているジミの動き。
一体彼は何をしているのか?
観客に向けてパフォーマンスをしているわけではない。
つまり、フレディ・マーキュリーみたいな「見せかた」は全然していない。
そこには、観客の「視線」や観客が体感している「時間」の観念はあまりない。
具体的にどう視点を操作してやろうかとか、どんな間が効果的だろうかとか、そんなことはジミは一切、考えていない。
だから、ジミのパフォーマンスは「ショー」ではなく、そこで何が「起きるか」という「ハプニング」だ。
観客はジミを見たり、ないしは音楽を聴こうというのではなく、ただその事件を「体験」するしかない。
そもそもその音楽にしても、それは譜面に起こせるような、直線的な音の配列なんかでは全然ない。
それは電流の流れる音であり、増幅されたジミの身体であり、純粋な物理的な振動、攻撃的な、存在感をもった「塊」のようなものだ。
ジミの動きは、ひたすらこの「塊」に奉仕するように、
その「塊」がどんどん大きくなっていくというその「事件」そのものに対してパフォーマンスしているのである。
だからどこを見ているのかよくわからないし、何に向かっているのかもよくわからないし、何がしたいのかも正直よくわからないし、観客からしたらある意味、置いていかれるような印象すらある。
燃料を取りにいくのもただ無駄な動きに見えるし、あの呪術的な手つきも、たとえば怪奇映画の俳優の動きではない。
あくまでもそれはそういう「体」であり「身振り」に過ぎない。
しかし衣装はあくまでも「ショー」のためのものであるってのがまた格好いいところなんだけど。
13th Floor Elevators – Fire Engine
這々の体でやっとのこと家に帰り着き、クーラーを入れ、おとなしく音楽でも聴いていよう……と思ったら!
この暑さでクーラーもオーディオもすっかりイカレちまった!
もはや部屋は蒸し風呂状態、スピーカーからはぼそぼそと貧弱な音しか出ない!
そんなときでも13th Floor Elevatorsは相変わらず。なぜなら元々録音状態がヒドいから!
おなじ時代にビートルズがスタジオで音の実験を繰り返しているというのに、とりあえず仮に録音しましたとでもいったような適当かげん、
それなのにテンションだけ異様に高い!
ボーカルだけじゃない、演奏がぜんぶ、ぜんぶがぜんぶ、前につんのめっているのだ。
そしてエレベーターズの最大の特徴は、ずっとうしろで聞こえている
「トゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥクトゥク」という謎の声!
これは深夜にひとりで聴いていたら怪現象じゃないかと思うくらい怖い。
しかしこの、笑っているのか泣いているのか、ラリっているのかそれとも我々にはわからない何かの言語なのか、もはやよくわからない声をじっと聴いていると、なぜか異様な浮遊感にとらわれるから不思議だ。
どうやらこの声はアンサンブルのひとつではなく、ひとつの「環境」を担保するためのものなのだろう。
つまり、この最悪な録音状態を正当化させ、サイケネスにまとめてしまうといったような……
そう、この謎の声があるから、こんなヒドい録音でも聴いていられる。
そうだとしたら、もしかしてエレベーターズは世界最初のアンビエントと言うことができる!?
それはさすがに極言だけれども、これだけ激しいロック・ナンバーでありながら、音楽を聴いてあまり「ノる」気にはならない。
スピーカーを前にしてただ対峙しているという感覚というか、どちらかというと「没入する」感じだ。
そしてその感覚はサイケの感覚と非常に親和性がある。
キメた状態でのハマりかたは、方法こそ違え、「ライブ/デッド」に匹敵するだろう、おそらく。
The Beatles – Good Night
やっと夜になり、もはや今日は寝るだけ、しかしこの熱帯夜、一体どうすればいい?
クーラーはすっかりやられてしまった。
窓をあけ、団扇であおぐが、寝られようはずがない!
風もなく、汗は耳の脇をながれ、イライラが背骨の奥にずっと残っている。
しかも、開けっ放しの窓から蚊すら入ってきてしまった!
こうなったら最終手段しかない。「子守唄」である。
しかし、ビートルズの後期アルバム「The Beatles(通称ホワイト・アルバム)」の最後の曲である
この「Good Night」は、聴くほど、すごくコワい。
いや、具体的にコワいことを歌っているわけではなく、
ただなんとなく、このいかにもノスタルジックなストリングスの音や、バックのコーラスの感じが、非常にコワいのだ!
どことなく、全体に漂っている「幽霊」の感覚、その演奏家、コーラスのメンバー、全員が、すでに死んでいる「幽霊」に思える。
イントロに入っている音はテルミンだろうか? どことなく不安になる、幽霊の音だ!
そしてそんな声で「おやすみ、ぐっすりおやすみ」など歌われるのだから、これはたまったものではない。
そもそも、この曲の入っているアルバム「ホワイト・アルバム」は、それぞれの不仲が顕著になったビートルズが、バラバラに作った曲を寄せ集めて作られたもの。
それまでのアルバムでそれぞれコンセプティブに作られていた「The Beatles」の物語が、ここにおいては完全に崩壊している。
ここには「Sgt. Peppers」も「Yellow Submarine」もない。
ただバラバラになって像を結ばない、それぞれの個別の物語の集積だ。
「Ob-La-Di, Ob-La-Da」のような明るい曲すら、このアルバムの中ではどこか空白のなかにぽっかり浮かんでいるような、空虚で孤独な感覚がある。
それなものだから、「幽霊」の感覚というのはこのアルバム全体に漂っている。
つまり、死んでしまった「The Beatles(の物語)」の幽霊が、それぞれ孤独に演奏しているのだ!
そんなものだから、「Good Night」と歌うのだって、
まさにそれは幽霊たちがその幽霊たちに向かって、
「おやすみ、ぐっすりおやすみ」と歌っているわけだ!
それはいかにも、コワいわけだよ!
というわけで子守唄に背筋がゾッとして暑さも和らいだので寝ることにする。

カゲヤマ気象台
1988年生。早稲田大学卒。演劇カンパニー「sons wo:」主宰。
趣味は音楽とお酒と料理。
<活動予定>
2012.09.02〜04@神楽坂die pratze
sons wo: 世界のために、とまどい編『仏門オペラ』